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景教
唐代のキリスト教
西安(長安)の郊外に金勝寺というお寺がある。この寺の境内に「大秦景教流行中国碑」という大きな石碑があることはすでに明代から知られていた。伝えるところによると、この碑は明代に土中から掘り出されたもので、古碑だというので金勝寺に移して保存されていた。この碑の発見と研究によって、唐代にキリスト教が中国に伝入した事実とその情況が、かなり明らかになった。
景教とはシリアに行なわれたキリスト教の一派であるが、その教理、教条が正統キリスト教に反するというので、カトリック教会から異端の宣言を受け、その祖述者ネストルは宗教裁判によってエジプトに流された。ネストル派はこうして西方における布教を禁ぜられたので、もっぱら東方に伝道を行なった。そして、ペルシアにおいて相当の信者を獲得し、さらに中央アジアに伝播したものが、唐代に東西交渉のさかんになるにつれて中国に伝来したものである。ネストル派が唐にはいったのは貞観九年(635年)のことで、太宗はそのご一寺を建立し、二十一人の僧を公認し、経典を翻訳させた。この寺は波斯寺と呼ばれた。景教が当時ベルシアの宗教と考えられていたことがわかる。景教はゾロアストル教とはちがって、中国人のあいだにも相当普及した。信徒は長安や洛陽だけではなく、寧夏や四川の各地にひろがっていた。しかし845年に仏教の弾圧が命ぜられた時、ゾロアストル教やマニ教とともにそば杖をくって禁制された。しかし日本のかくれ吉利支丹と同様に、ながく潜伏して後代に残った。かくれ景教は中国本土にも明代ごろまで残っていたらしいが、とくに東トルキスタン、モンゴリアにはその数がすくなくなかった。
大秦景教流行中国碑は清代になって学者の注目をあびたが、二十世紀に中央アジアの探検がさかんになった結果、景教に関する新資料が続々と発見された。それは主として景教の典籍の漢訳であるが、それを見ると景教はかなり中国化していたように思われる。しかしこのキリスト教の一派は中国化する以前にすでに多分にベルシア化していたことは、これらの景教文献には、仏教美術化した立像に十字架らしいものが見出される。東トルキスタンの高昌の遺跡からはこのように仏教化されていない壁画も発見されている。盛唐の西域文化が圧倒的にササン時代のベルシア文化、あるいはその強い影響下にあった文化であることは否定できない。しかしそれと同時にササン朝文化のうちのギリシアロ-マ文化を見逃すわけにはいかない。また他方では、ギリシアインド美術といわれる仏教芸術の強い影響を認めなければならない。
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2001年10月
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