シルクロ-ド

 紀元前二世紀前後すなわち秦の末、漢の初めのころ、このころ北方の遊牧国家は内モンゴリアに東胡、モンゴリア北中部に匈奴、その西南に烏孫、その南に月氏などがあり、北中国を半円形に取り巻く形をしていた。ところが匈奴の勢力がしだいに強くなり、東胡、烏孫、月氏などをあるいは征服し、あるいは駆逐して大遊牧帝国を建設することになった。これは前200年ごろのことで西方のパルテ? アとはほぼ同じ時代にあたる。こうして強大になった匈奴は当然、秦を滅亡して新たに中国を統一した漢と対立することになる。匈奴は漢の成立のそもそものはじめから、しばしばその北辺に入寇し、漢の建国者である高祖を山西省の白登に囲んで大いに苦しめたこともある。しかしそれから数代を過ぎた漢の武帝のころになると、漢の国内は安定し、経済も未曾有の繁栄をきたして、国力は充実した。そこで武帝は匈奴を撃破して北辺の脅威を除去する計画を立てたが、そのためには戦略的に匈奴とトルキスタンとの連絡を断つ必要のあることがわかった。これが漢の武帝の西域遠征すなわち東トルキスタンを征服する目的である。

 武帝は西域の事情を探るためにまず月氏に使者を派遣することになった。しかし中央アジアに行くためには、どうしても匈奴の地を通過しなければなりません。幸い武帝は張騫という適任者を見出し、匈奴出身の甘父(かんほ)というものを補佐として百数十人を率いさせて、紀元前138年西域に派遣した。この旅行には十三年を費やし、最初、張騫が長安を出発する時に伴った百数十人のうち二人が残ったにすぎない。その後、張騫は武帝に対し、西域のオアシス諸国の軍事力は弱く、漢の産物を欲しがっているが、北方の遊牧民の兵力は強いので、南方の交通路によってオアシス都市と交易し、遊牧民には贈り物を与えて懐柔する策を上奏した。紀元前122年には張騫は兵を率いさせて四川から北インドに遠征し匈奴を攻めて勝ったので、西域への交通路が開けるようになった。漢と西域との交流は未曾有の盛況を呈することになった。西暦前二世紀の半ば頃から、漢は東トルキスタンの殆ど全部を勢力範囲におさめるようになった。漢の宣帝は西域駐在の将軍鄭吉を西域都護に任じた。西匈奴の日逐王が漢に帰順した時には、匈奴は五部にわかれて争っていたが、ついには東西に分かれて二部になった。このような形勢を知って、西域都護府は屯兵四万を発して西匈奴を攻めた。当時、西匈奴の本拠は西トルキスタン北部のタラス河附近にあたが、漢軍はこれを破り、西匈奴王を殺したので、匈奴の部衆は四散してしまった。東匈奴が降り、西匈奴が四散してから凡そ六十年の間は、北方からの脅威はなく、西域は平穏で漢の西方貿易はますます盛んになった。このようにして、ついにはシルクロ-ドを開創するようになった。

 今日、われわれはシルクロ-ドはいわば世界史の動脈の働きを示してきたことがわかった。全長の約七千キロメ-トルであるシルクロ-ドが世界史上、重要な意義をもっているからである。実際にわれわれが今日、シルクロ-ドを旅行してみますと、ひじょうに多くの遺跡がるいるいとして散在していまして、そういうものを見たときに、大きな感銘を受けるわけである。それらの遺跡の世界史における位置を知るとますます重要なことがわかってくるわけである。こうしたシルクロ-ドの機能としていちばん大きな問題は、やはりこの中央アジアというところは砂漠地帯であるから、オアシスを伝いながらでなければ旅行することができない。したがってシルクロ-ドというものは、中央アジアの動脈であると同時に、中央アジアと西アジアがアジアとヨ-ロッパを結んでいるので、いわば世界史の動脈であるということができる。簡単にいうと、その動脈を遊牧民がどういうふうに利用したかによって、いままでの世界の歴史は大きく展開してきたのである。つまり紀元前約2000年くらいからシルクロ-ドの上をいろいろな遊牧民が世界の各地に進出しまして、先住民族と接触し、先住民族の文化をどんどん取り入れるというところから、古代の歴史とわれわれが呼んでいるギリシアとか、あるいはペルシア、インドの古代史というものが発生したわけである。シルクロ-ドは世界の主要な文明の母胎である。シルクロ-ドは旧世界の世界中に行き渡っていたわけであるが、主としてその末端部にいろいろ重要な文化が芽生えまして、まあ、文化があるところはもちろん自分たちの文化を周辺の文化を自分たちの中に組み入れて新しい文化をどんどん開発いたすので、当然交通路というものが、一つの偉大な文明を中心に繁栄しているわけである。そこでシルクロ-ドの末端部を見ると、いわゆるメソポタミア文明であるとか、あるいはエジプト文明、中国文明、インダス文明、そして最近では中央アジアのフワ-リズム、現在ヒウ? と呼んでいる地域のあたりにも多くの古代文明がその末端部に栄え、それぞれまわりのほかの地域に大きな影響を与えたわけである。また、中世の人間の生活に大きな影響を与えたのはなんといっても宗教であるが、キリスト教とか仏教、マニ教ゾロアスタ-教、イスラム教といったような宗教がシルクロ-ド上の各地に芽生えまして、これが中世の世界に大きな影響を与えたということができるわけである。しかしシルクロ-ドのもっとも重要な機能はなんといいてもこの道が、東西文明の掛け橋であった点である。その道を利用することによって東の文化が西へ行き、西の文化が東へきたということでありまして、その世界文化の進展への貢献はまことに偉大である。この東西文化の交流はいろいろな調べ方がある。たとえば物の移動によって調べるとか、あるいは森豊氏がよく発表されるように、文様の変遷を調べ、文様の変化によっていろいろと文化の動きを調べたりするわけであるが、いちばん大きいのは、何といっても中世にあっては宗教でありまして、たとえば仏教というのは一つの大きな総合文化体として、インドからずうっと中央アジアを経て中国までやってきた。そして中国で大きな文化活動をして、朝鮮半島に渡り、あるいは南朝の仏教が百済に渡り、さらに海を渡って日本にも仏教文化を伝えてきたわけである。日本に及んだ仏教文化の偉大さというものはひじょうに大きいものがあるわけでありまして、奈良時代の文化というものが輝かしい文化の高まりを示したというのは、仏教文化が原動力になった点が少なくないのである。千年あまりたっていたシルクロ-ドの終着点としての都は長安であった。漢、唐の都長安は、当時の世界では、西のロ-マとならぶ、東の文明の一大中心地だったのである。長安とロ-マを結ぶ交易路がいわゆるシルクロ-ドであった。

中国シルクロードサイト
www.travel-silkroad.com

2001年10月



© 1997-2007 中国シルクロードサイト, 著作版権を持つ
シルクロードLogo、シルクロード、Travel Silk Road和Silk Road Travel北京シルクロード展覧展示サービス株式会社登録したブランドである.
本ホームページの内容と関聯するソフトヴェアの版権は、版権の所有者にある.製作権法により、中国シルクロードサイトから書面の許可を出さなければ、誰もが本ホームページの内容のコピー、散布、割り付けなど許さず、許可を貰った場合、コピーした部分は原件の所有権と版権の登載が必要とする.
No part of this website may be reproduced, stored in a retrieval system, or transmitted, in any form or by any means, electronic, mechanical, photocopying, recording or otherwise, without the prior permission of www.travel-silkroad.com.