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西周
長安風雲録
西周時代(前1100~前256年)
西周樹立
  前11世紀、周人の勢力が強大になり、周の文王は岐山のふもとにある周原から豊邑に都を移した。当時商の最後の王?商紂王は酒池肉林の生活をしており、圧政を行ったということ、暴虐無道であって、それに権力闘争と奢侈な暮らしに慣れた貴族達によって腐敗は著しかったということで、王朝内部が非常に乱れてきた。周の武王は機に乗じて諸侯と会し、商を滅ぼした。その後、前1027年周の武王?姫発 (在位 前1122~前1116) は鎬京 (後の長安や、今の西安付近) にもどってから正式に周王朝を樹立した。鎬京は都になった。
上図は西周定都鎬京


  周は、一族や有力な豪族に土地を与え、諸侯国を作り支配させた。諸侯の下には、卿、大夫、士という位に別れた家臣がいる。そして諸侯は、周王に貢納と軍役の義務を負い、また家臣達は諸侯に同様の義務を負っていたというモデルを建てられていた。

 そういうモデルは封建的なものがあると思われているが、封建制国家とは言えないのである。                 
西周滅亡
前8世紀頃より、周王と諸侯の間で溝が生じてくる。何故ならば、特に周王とその一族の諸侯の間の血のつながりが、同族同士の結婚は禁じられていたため、長い年月の間にほとんどなくなってしまったことがある。そして、諸侯の中には周王よりも大きな力を持つものも現れた。

  周の幽王は寵妃の褒似(ほうじ 似には女へんがつく)を笑わせるために、狼煙(のろし)台に火をつけた。各地の諸侯は緊急と思い次々に駆けつけたが、騙されたと知り、怒って帰って行った。
上図は西周武王時の動乱


  一方、北方の遊牧民族の侵入も始まった。前771年、申侯は犬戎と連合して鎬京に侵入してきた。幽王はのろし台に火をつけさせ、諸侯に救いを求めたが、誰も救援に来ず、都を攻略され、西周は滅亡した。

  西周が滅んだ後、廃嫡された皇太子?宣臼が即位した。かつて周公旦が周の副都としていた成、或いは洛邑(後の洛陽)に遷都した。それは前770年のことであった。

  その時の周はただ名義的な国家で、実は力を取り戻らなかった。そして、春秋時代に入っていた。
 
 
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