用户名:
密 码:
 登録
サイン
 
西域とは
西域2
西域3
 
 
 
西域3
またこの張騫の大月氏遠征をきっかけに、漢は西域との国交、交易を始め、シルクロードの時代が幕を開けた。漢は西域への第一歩となる河西回廊(ゴビ砂漠と祁連山脈の間。現在の中華人民共和国甘粛省)を獲得し、そこに武威、張掖、酒泉、敦煌の4つのオアシス都市、いわゆる「河西の四郡」を造営し、多数の漢民族を移住させた。またその河西の四群の中で一番西に位置する敦煌の西側に「玉門関」、「陽関」の2つの関所をを建造し、ここまでを漢民族の支配権とした。更に漢は西へ兵を進め、それまで匈奴の支配下にあったタリム盆地のオアシス都市群をことごとく支配下に置き、天山南路の大オアシス都市クチャに「西域都護府(せいいきとごふ)」を置き、植民地経営に当たった。
だがこういった積極的な対外政策は莫大な軍事費を要し、それは漢の財政を著しく疲弊させた。武帝の晩年、内紛が治まった匈奴は再び勢力を盛り返し、漢の軍隊もまた匈奴に連敗を喫するようになった。やがて紀元前後、皇帝の外戚(皇帝の后の親戚)である儒学者王莽(おうもう)が前漢王朝を乗っ取り滅ぼし「新」という国を建てたいわゆる「王莽の乱」が起こり、漢王朝(前漢)は滅びた。王莽は保守的、突発的で現実離れな政治ばかり行い、対外的にも異民族を蔑視した政策をとり、更には莫大な費用を要する西域支配の取り止めをも決断する。タクラマカン砂漠の各オアシス都市群ではそれに反発した人々によって暴動、内乱が起こり、西域都護は暴徒に攻められ、都護も殺された。その結果漢は西域からの撤退を余儀なくされ、西域都護府は廃止され、敦煌西の関所である陽関、玉門関も閉ざされた。この結果西域(ここではタリム盆地をさす)に再び匈奴が攻め込み、各オアシス都市群も再びその支配下に入った。
やがて王莽は治世に失敗し、民衆らの反感を買い国内では大反乱が起こり、暴徒や反乱軍により政権の座を追われ、殺される。これを「赤眉の乱」という。  かわって漢王朝の王族である劉秀が”光武帝(こうぶてい)”として即位して漢帝国を再興し、西の長安から東の洛陽に遷都していわゆる「後漢王朝」を作り上げた。後漢は最初内政を優先し、対外政策に対しては消極策をとったが、2代目の明帝の頃、再び匈奴との戦争を始める。当時匈奴はまたもや内紛、飢饉などで混乱状態となり、北匈奴、南匈奴の2つに分裂していた。南匈奴は紀元後1世紀中頃あっさりと漢に降ったが、北匈奴は漢にあくまで徹底抗戦を挑んだ。漢帝国軍は竇固(とうこ)を将軍とし、アルタイ山脈(現在のモンゴル人民共和国と中国新疆ウイグル自治区の間にある大山脈。天山山脈の東隣に位置する)南麓などで北匈奴(以下この北匈奴を匈奴と呼ぶ)を打ち破り、再び西域への進出をもくろんだ。
その西域における漢の勢力復権の為、派遣された将軍が班超(はんちょう)である。
彼は紀元後32年、歴史家の家に生まれ、兄は後漢時代を代表する歴史書「漢書(”東夷伝”として日本のことも出てくる)」を書いた班固(はんこ)である。彼自身も若き日から歴史家を目指し歴史を学ぶが、『史記』などの歴史書で前漢時代西域に赴きシルクロード交易を切り開いた外交官張騫のことなどを読み、西域への関心を強める。やがて彼は軍人となり、竇固将軍率いる対匈奴征伐軍に従軍する。
42歳の頃、彼は当時匈奴の侵入に脅かされていたタクラマカン砂漠のオアシス都市群を漢に服従させる為、わずかな手勢を率いタクラマカン砂漠へ足を踏み入れる。まず彼は敦煌から西に進み、西域への玄関口であるゼンゼン国(かつての楼蘭)に兵を進めた。ゼンゼンの人々は最初班超達を厚遇したが、次第にその態度は冷たくなっていった。それは匈奴の使節団がやって来ていて、近くのオアシスで野営をしているから出合った。班超は匈奴の使節団の野営地を聞き出し、それにわずか36名の部下だけを率いて夜襲をかけ、撃退し、部名を挙げた。

 
 
© 1997-2007 中国シルクロードサイト, 著作版権を持つ
© 1997-2007 www.travel-silkroad.com, All Rights Reserved
シルクロードLogo、シルクロード、Travel Silk Road和Silk Road Travel北京シルクロード展覧展示サービス株式会社登録したブランドである.
The Logo of Silk Road, Silkroad, Travel Silk Road and Silk Road Travel are trademarks of Oriental Travel Silk Road Exhibition Services Co., Ltd.